like electricity

舞踊教育に携わるdance educator。バレエ関係がメインだけれど、ダンス、アート、芸術、教育、人間などなど日々考えることの発信の場。読書感想文もあり。ビビビっとくる何かとロマンを求めて。

Prix de Lausanne 2016


2016 Prix de Lausanne finals

 

ということで、今年もローザンヌの季節になりました(というか終わりました)。

今年はもう起きていられないのが分かっていたので遅ればせながらようやく本日ざっくりとYouTubeで。

相変わらずの(?)日本人入賞ということで、活躍してますねー。

しかしファイナルまで残る人たちは上手だし体型も素晴らしい人が多いこと。

 

これ関連の記事は「この子が良かった」とかが多いけど、それは飛ばして…

 

今年のファイナルを見て特に思ったのが、体格差。

普通に考えても人間一人ひとり体格差はありますが、思春期のこの頃はさらに顕著。

本当に同じ年齢なのか!というくらいの体格差がある。身体を使うダンスは、体格差でできることやできないことに差もかなり出る。それはそれ、と言ってしまえばそれまでだけど、成長期を経てプロのダンサーになっている人はそれでいいと思う。

しかし発育・発達途中のこの子たちはそういうことでたくさん悩むと思うし、そう言ったことも視野に入れた教育・訓練・稽古がやはり必要だな、と見ていて思いました。

 

それと関連して。

ダンサーは特に精神的に早熟じゃないとやっていけないところもあると思うのだけど、それでもこういう舞台で年相応の楽しそうな感じや魅力が出せるダンサーはこれからもキラキラと伸びていくんだろうなという印象を与える。あくまでYouTube越しの印象だけれど、やっぱり大事なところ。

 

あとわたしが留学中にABTの学校にいた子(当時からとても素敵なダンサーで、その子のレベルのレッスン見学はいつもうっとり)が今はオランダのHet Nationale Balletのセカンド・カンパニーにいるので、結果発表の前の幕間のパフォーマンスも楽しみに拝見。

出場者に近い年齢層の若いダンサーが、こうしてゲストとして出る側で踊るのを見ることはとてもいい刺激になるんだろうなぁとしみじみ。

日本でも準団員制度はあるけれど、セカンド・カンパニーのような形とはまた違う機能だし。わたしはこういう取り組みはいいなと思うのだけれど、日本では難しいところでしょうか。

 

ファイナルまで残ったダンサーも、残念ながら途中までだったダンサーもローザンヌはただのコンクールじゃなくてとてもいい学びの場になっている(と外の人間でも思う)から、今回の経験を糧により一層輝いていってほしいですね:)

【記事紹介】「女性進出」と聞いて萎えちゃうような人に読んで欲しい連載。

本日はこちらの連載のご紹介。

 

ハーバード流ワークライフバランス:日経ウーマンオンライン【ハーバード流ワークライフバランス】

 

上に貼った連載をされている方は、現在、フルブライト奨学生としてハーバードで公共政策を学んでいるそうで、これからワークライフバランスをテーマに日経ウーマンで連載を組んでいくそう。

実は、私もNew York Universityはフルブライト奨学生として留学しておりました。

ご存知の方もいらっしゃる思いますが、フルブライト奨学金はアメリカと自国の2カ国間の交換留学プログラム。奨学金プログラムがとても充実していることや肩書きも魅力ではありますが、やはりこのプログラムを経て出会った人々の刺激的なことと言ったら!自分も頑張らねば!と駆り立てられるようなことを次々とやっていくフルブライターのみなさん。

 
さて、本題の「女性進出」について。
 
個人的に、女性性をゴリゴリ押し出していって女性進出を謳うのはどうかと思うこともあるし、「女性進出」なんて言葉をわざわざ使わなければならない世の中なのかとうんざりしてしまうことも多々。っていうかそもそも「進出」という言葉がしっくりこない。
 
しかし、ひとりの女性としても、また人間としても、しっかりと把握しなければならない重要なこと。
 
この連載は、各国から集まる女性留学生がそれぞれの国での「女性進出」について語るという形式なので、世界でどのようなことが考えられていて、起きているのかがわかるのではないかと思います。
 
大学院の各国の女性を取り上げているので「女性進出」に限らず、アメリカの大学院の雰囲気や学生のモチベーションなども分かるので、将来留学を考えている人は女性に限らず読むべき。
 
というか「女性進出」を考えるにしても女性しか取り組まないのでは意味がない。
 
公共政策という分野柄ということもあるかもしれないけど「本気で世の中を変えようとしている人がこんなにもいるんだ」というのは、わたしもフルブライターや大学院で出会った人々を通して感じたこと。
 
ひとまず、「女性進出」ということだけではなく、様々な視点から「目から鱗」のような体験ができる連載なのではないかと思います。
 
世の中捨てたもんじゃない、と思うこともあるもんだ。

「アーティスト症候群」を読んで

先日のブログにも一瞬出てきた本書。

「パフォーマンスと身体表現の違いとは」といった内容の記事にこの本のことが書いてあり、「アーティスト症候群」とも呼べる現象の裏ではなにが起きているのかも知りたくて講読。基本的にはビジュアルアートと呼ばれる絵画や彫刻などのジャンルがメインだけれども、「アーティスト」という響きの連想させる幻想とかについての指摘がぐさぐさ。

いわゆる、「芸術家」という意味以外で使われる「アーティスト」という肩書き。

わたしも常々疑問に思っていた、ミュージシャンをアーティストと呼ぶ、あれ。別にミュージシャンがアーティストじゃないと言ってるわけではないけど、「この人がアーティストだったら、実際にアーティストのあの人は神か」といった具合に思うことも。(本著にもユーミンの引用が面白かった)

あまりの痛快さが面白くて吹きそうになることもしばしば。なんというか、美大生あるある、みたいなところもあるのだろうけど、別に美大生に限ったことではなく、アート系な大学生とかも超あるあるなのではないだろうか。

著者は「元アーティスト」であり、本人もそういう道を通ってきたからこそぐさぐさ言えるのだろうとも思う。別にバカにしてるわけではないんだと思うけど、そこを指摘しないとそもそもなぜそれが問題なのか、あるいはこの現象は一体どういうことなのか、ということが見出せないということでもある。

それとは別に、なぜ「アーティスト」という言葉が多用されるようになったのか、を近代芸術の発展をふまえて説明してくれるので、現在、芸術と言われるもの(アートと呼ばれるものでもいいけど)がどこまできたのか。また日本においてそれがどう使われるようになったのか、を振り返ってもいるのでそこはそこで興味深い。

日本における「職人」と「アーティスト」の違いなども興味深いし、「誰でもピカソ」と「なんでも鑑定団」の比較もなるほど。

これを読んだみなさんいろいろとご意見あるのでしょうが、わたしが感じたのは、やはり元アーティストである著者の視点は本当にその現場を考える上では有意義な、というか参考になるものだとわたしは思う。

外の人は所詮、外の人でどんなものかなんて想像してみるしかない。

その世界の人がそれを語ってくれるのは、その人の視点に傾倒する危険性はあるにしても、やはり貴重なインプットにはなる。

近い畑のダンスについてもいろいろ考えどころですな。

Huffpostブログ「それ、表現なんですか?」を読んで

www.huffingtonpost.jp


「それ、パフォーマンスなの?それとも表現なの?」という問い。

 

そもそもわたし未だに「(身体)表現ってなんぞや」が自分の中でケリがついてないのであれですが、ひとまず。

 

舞踊分野を中心に、この現象は時代の流れとして起きていることの一部とわたしはよく思うのだけれど、分野に関わらずperforming artsと呼べるような、いわゆる上演芸術全般でいえることなのだろうか。パフォーマンスがいわゆる芸術分野に近づいてきているだけでなく、その逆も然りな部分もある。なんというか残念なところはもちろんあるけど「けしからん!」とか言ってどうにかなる問題でもないし、すごい消極的に聞こえるけど大きな流れは変えられないし。


そして、本当にこの記事の筆者が期待するほどの「表現」がいわゆる舞台芸術側にも「しっかり存在してるぜ!」と言い切れるほどあるのか、わたしには自信がありません。いや、存在してはいるけれど、うーん、常に存在しているとは言い切れないという意味です。

 

でもこのブログの記事に書いてあるようなことを、その世界にいる人が発信してくれるのは、わたしみたいな人間が言うよりもよっぽど力があるので、ah yesという感じ。ちなみに、この記事でも触れられている「アーティスト症候群」という本も興味があったので、講読しました。こちらについてもそのうち触れます。

 

このご時世、画像・動画映えするものの注目度合いがグーンと高まっているため、必然的にニュアンスよりは、はっきりと分かるものが求められる。なんというか、オタクがこんなにも多い世の中ならばもっと「バーーーーーン!」みたいなのよりも「ここのこれ、たまらん」みたいなのがあってもいいのではないかとか思うのだけど、そういう問題でもないか笑 人それぞれですが閾値が大きくなっているのか。所詮わたしもそんな人のこと言えないけど。

 

ただ最近「色々なものは繰り返されたり、前の時代の反動として再出現してくる」という現象が果たしてこれからの時代にも当てはまるのか、というところがしみじみながらとっても気になるところ。

もちろんこれまでもまったく同じものが繰り返されてきたわけではないにしても、このまま進んでいったら、今まで以上の距離が生まれてbring backできないものが相当大きくなるのでは、というのを肌で感じる。常にthe point of no returnを過ぎ去っていくのがこの世界の理なのだろうけれど、それでもああどんどん止まらないんだな、と傍観者のように感じている今日この頃。しかし年齢的に考えて傍観者に回ってどうする、という話でもある。

しかしまぁ、みんなこんな感じで様々な時代を生きていくのだろうか、とモヤモヤと考えるくらいの年頃にはなりました。

ダンスはスポーツか芸術か

以前、留学記の方で投稿してあったものですが、ここを開設したので記事のお引越しです。

 

アメリカの舞踊教育の学会であるNational Dance Education Organizationが2015年5月末に刊行したジャーナルJournal of Dance Education(JODE)に「ダンスはスポーツか?」というタイトルの学生向けの読み物がありました。ダンスをやる人にはおなじみの「はい、出ました、この議題」って感じですね。

 

どこの辞書を調べてもdanceの項目には「スポーツ」ということは一言も書いていない。なのに、なぜ「ダンスはスポーツか否か」という問いがあるのか?

 

記事では、マイケル・ジャクソンやバリシニコフの伝説的な活躍とその魅力について触れたり(彼らは超人的なテクニックやトリックだけではない、芸術的な、あるいはもっとカリスマ的な何かがあったということ)、昨今のコンクールやSo You Think You Can Dance?のようなトーナメント式TVリアリティーショーのもたらす「ダンスにおける競争・競技性」について触れたりしている。

 

中でもわたしが面白いな、と思ったのは、特にTVの影響でダンスがいわゆるお茶の間に広がったけれど…?という論点。

 

暗い劇場で鑑賞中、個々人が悶々と感じている従来の「ダンスの鑑賞」とは異なるTVのダンス・プログラム。パフォーマンスの前にそれまでの練習風景等がオンエアされて、終演後に「エキスパート」の審査員が「これはこうだった」「こう思った」という「評価」をくだせば、視聴者もそれに左右され、誰がトーナメントを勝ち進むかを選ぶ決定権が自分にもある、という指摘。これはこれで面白い指摘だけれど、まぁ新たなダンス鑑賞の形態の登場なんだろう、くらいにしておきます、ここでは。

 

とにかく、そんな環境が定着しつつあるアメリカ(とそのTV社会というかなんというか…)。筆者は、Debate.comというサイトでの「ダンスはスポーツか」というディベートで挙がった匿名意見(反対意見)を3つ紹介しているのだけれど、これがものすごい。(以下「」内の日本語訳と[]内の補足はわたしによるもの。この3つを紹介しているのは元の記事を書いているGuarinoさんです。興味あれば下に原文を当たってください。)

 

「ダンスがスポーツなわけがない!!ダンスは単なる記憶のゲーム[これは多分振りを覚えること、という意味だと思う]。連続回転とかちょっと難しいところもあるかもしれないけど、そんなものは普通の人が1ヶ月もしないで習得できるものだし。」

 

「ダンスには身体活動というものがない。今まで一度もダンスをしていて汗をかいてる女の子なんてみたことない。化粧して、ぐるぐる歩くことだけ覚えてればいいんだし。ダンス鑑賞なんてスポーツ鑑賞よりもつまらない。あぁ、でもスプリッツはすごいと思うけどね。それ以外にダンサーが汗水たらしてやるのなんてストレッチくらいでしょ。」

 

「誰もができるから、ダンスはスポーツじゃない。例えば、ゴルフとかホッケーはプレイするのに才能がいるからスポーツだと言える。今じゃ誰でもダンスはできる。だからダンスはスポーツじゃない。」

 

 

とまぁ、これらは少数意見ではない、ということを筆者のGuarinoさんも言っています。わたしなんて踊っていて汗しかかかないけど!笑 あとは大学の講義でダンスを履修すれば楽にいい成績がとれると思っている学生が多い、とか。そりゃ大学の一般教養や体育にあたる講義だからプロ顔負けの内容をやるわけはないのだけど、それでも「え!ダンスこんな大変なの!?」と思う人は少なくないらしい。

 

ダンスをやっている人間からしたら、どれも見当違いで、びっくりするしかない意見ですが、つまりはダンスの認知なんてその程度なのだ、ということ。今紹介したのはアメリカの現状なので一概にも日本も一緒とは言えませんが、まぁでもそんな変わらないんじゃないのかしらとも思う。むしろ、全くダンスに関係ない人の意見を聞くの面白いよなぁと思っている。ずっとこの世界にいるわたしたちじゃわからないことが見えてくるだろうからね。

 

もうひとつ。この記事で、Jenna GarechtというHuffpostのティーンブロガーの記事も紹介されています。彼女は小さい頃から、アメリカではかなり人口の多いコンペティティブ・ダンスをやっている。直訳すれば競技ダンスだけれど、日本語でいうところの競技ダンスーつまり、いわゆる社交ダンスのようなものーではなくて、それこそSYTYCDでみられるようなダンスを小さい頃からやっている、ということ。彼女はそういう競争があるダンスの中で育ってきたから、ダンスはスポーツだ、と考えている。身体の訓練や大会でのプレッシャー、順位などなど。普通に聞いていたらスポーツと大して変わらないようにも思えます。ただ、彼女はダンスは表現手段でもあるから、芸術でもある、とも言っている(ここの論拠はわたしからしたらうーんという感じだけど、まぁ割愛)。

 

ダンスは身体を使うものだし、その「使う」過程でアスリートが身体を訓練するのと同じような「訓練」が行われているのも確か。一方で「身体表現」と言い表されることが多いダンスはその表現性から「芸術」と認識されることも多い。JODEの記事には、「芸術」と「スポーツ」の二項以外にも「コミュニケーション」としてのダンスということもでてきている。さらに、ダンスをやっている身としてはなかなか思い至らないけれど「スポーツ」にも「芸術」にもひっかからない「中途半端なもの」という認識もあるということ。

 

じゃあ、わたしはどう考えているかと言われれば、今挙げたすべての状況に当てはまる「ダンス」があるのだと思っている。芸術として機能している「ダンス」もあれば、こりゃスポーツだな、という「ダンス」もある。もちろんなんだこりゃという「ダンス」もある。わたしがそれを「ダンス」と呼びたくない、と思ったとしてもそれが「ダンス」として存在してたら、多分そうなんだろう、と思うしかないんじゃないか、ということ。「ダンスはこうであるべきなんだ!」という意見や好みはそれぞれあるだろうし、わたしも屈辱的なこと言われたら悔しいし嫌だけど、それがダンスの性質とか文化みたいなものなのだと思う。いずれにしても、「ダンスはスポーツか芸術か」という問いは白黒はっきりできるものではない。しかし、そこが面白いところでもある。

 

という最終的にはダンスののろけみたいな感じで終わります。

 

【出典】

JODE 記事:Lindsay Guarino (2015) Is Dance a Sport?: A Twenty-First-Century Debate, Journal of Dance Education, 15:2, 77-80, DOI: 10.1080/15290824.2015.978334

 

Huffpostのブログ:

www.huffingtonpost.com

ロマンはどこだ!

初めましての方も、そうでない方も。

ようこそ like electricityへ。

 

ダンスを通して考えることを中心に、electricにびびび!とくるものや、ロマンを発信できればと思い、立ち上げました。

 

ブログの説明を見れば、特に説明も必要ないかと思いますが、始める上での言葉の説明を少し。

 

dance educatorとは?

dance educatorという肩書きは聞いたのない人もたくさんいらっしゃると思います。

日本語に直訳すれば舞踊教育者、あるいはダンス教育者。

「え、何それ、ダンスの先生とは何が違うの?」

 

ものすごく平たく言えば、ダンスという活動を通して人間の成長と関わり合う人、でしょうか。

ただ単に「ダンスの先生」と表すのと、わたしが言う「dance educator」の一番の違いは、「人間の成長と関わり合う」というところ。ものすごく乱暴な言い方をしてしまえば「ダンスの先生」はステップを教えるだけでもダンスの先生と言える。だけど、本当に「いいダンスの先生」と呼ばれる人はステップだけではなくて、生徒がダンサーとして、また一人の人間としての成長していくプロセスを導いたり、手助けする存在であるはず。

ダンスと人間の関係は太古の昔から続いていて、それこそいろんな関係が、いろんな時代、いろんな場所で築かれてきました。

わたしはダンスを教えることももちろんあるけれど、「ダンスと人の関わり」というものに興味があって、ダンスを通して知って、考えて、模索して、生きていくというプロセスをいろんな方面からやっていきたい、と思い、dance educator、ダンス教育者あるいは舞踊教育者と自らの立場をとらえています。

 

「ダンス」と「舞踊」の違いとは?

こうしてこれから発信していくなかで「ダンス」と「舞踊」と両方の言葉で表すことが度々あると思います。ざっくり言うと、わたしが使うほとんどの場合、違いはありません。

「ダンス」と「舞踊」という日本語が持つそれぞれの背景から、「ダンス」はジャズダンス、モダンダンス、ストリートダンスなど、「舞踊」と言えば日本舞踊と連想される方も少なくないでしょう。当然、二つの異なる言葉ですので、意味が一緒ということは厳密にはないですが、あくまで、わたしがここで使う上では変わりません、ということ。

わたしがここで特定のジャンルのダンスあるいは舞踊について話す場合には、例えばバレエとかヒップホップとか日舞などと明記しますが、全部ひっくるめての話をしたいとき、「ダンス」だったり「舞踊」という言葉を使います。多分「ダンス」という言葉を使うことの方が多いと思いますが、「舞踊」という言葉が出てきてもびっくりしないでください。なんというか、普通に「今日通勤・通学でミュージック聴いてきたんだ」と言わずに「音楽聴いてきたんだ」というのと同じような感じで「舞踊」のひっくるめ感を捉えてもらえればいいかなと思います。

また、わたしは舞踊教育学・舞踊学という学術分野の研究者のたまごです。日本語でアカデミックな言い方をすると「ダンス教育学」や「ダンス学」ではなく、「舞踊」という言葉を使うので、その延長線のようなものと考えていただければ幸いです。

ちなみに英語だとdance educationとかdance studiesと言います。

 

ざっくり自己紹介

幼少期からバレエを習い、もっとバレエがやりたいということで高校からオーストラリアに留学。しかし、ここで思いがけずバレエやダンス以外にも勉強が面白いと感じ、日本に帰国し、大学へ進学。1年の交換留学に出されるカリキュラムだったため、ニューヨークの州立大学へ留学。そこでタップ・ダンスとニューヨークという街と恋に落ちるも無事に帰国。ダンスを通して人間、そしてこの世界を見ていきたいと思い、学部卒業後、今も在籍する大学院の舞踊・舞踊教育専攻に進学。修士が修了したところで、「やっぱり理論だけじゃどうにもならない」とニューヨーク大学の舞踊教育専攻に留学し、二つ目の修士を取得。詳しくは、リンクに貼ってある留学中のブログへどうぞ。

現在は、再び日本に腰を据え、博士号取得に向けて頑張ろうとしているところです。

研究テーマやらなんやらに関しては、またおいおいお話しできれば。

 

という感じでひとまずよろしくお願いします。